早くももう春のお彼岸ですよ。
「前生から見ればこの此岸も彼岸」、の彼岸です。
いやそれにしてもどうにも、季節の変わり目は仕事も忙しいし、色々ときついし・・・
中島みゆき嬢の、"夜会VOL.15~夜物語~「元祖・今晩屋」"
今作は森鴎外の「安寿と厨子王(「山椒大夫」 [青空文庫])」を下に、全曲書き下ろしにて、独特の世界観、死生観、そして「転生」を求め、織り上げられた絵巻のようです。
創った当人曰く、「物語は単純明快」(パンフレットより)なのですが、表面上はストレートな主張であり、単純な見せ方の一方で、とかく難解と言われがちな「夜会」に於いて、特に今回は理解しようとすれば更に答えが遠のくような、複雑な造りとなっていました。
赤坂 "BLITZ Tower Atrium" エントランス by D700
一見、その水面は穏やかに流れているように見えますが、水底を探ろうとすればそこには複雑に渦を巻く流れがあり、容易には辿り着けない深みを見いだすことが出来ます。
単純明快でもあり、難解なあやとりのようでもあり。
流れ落ちる飛沫は幾様にも色を転じ、姿を変え、轟きながら、囁きながら。
そして
終盤、それぞれの物語は一気に目指す場所へと流れます。
▽ 第2幕 後編 ▽
いつか昔に見たような光の色、景色。
そしてあれは、祖母に教えられたおまじないでしょうか?寝床で聞いた母の子守歌でしょうか?姉のあとに付いて教わった遊び歌でしょうか?
子供の頃に聞いたような、口ずさんだことのあるような、懐かしい旋律。
懐かしいような、切ないような、優しく胸を締め付ける調べに包まれて、やがて裁きの時が訪れます。
水族館で「109番目の除夜の鐘」が鳴り響き、空気が重くのしかかります。
上手にコビヤマ洋一 [新宿梁山泊] さんの厨子王、下手に香坂千晶さんと土居美佐子さんの、二人の安寿が揃います。
左右に分かれた二人(3人)が、罪状書(でしょうか)を読み上げ刑を言い渡します。
姉弟それぞれが相手のことを言っているのか、それとも自分のことなのか。或いは、母の罪を咎めているのか、理解を迷いました。言葉の意味を理解しようとしている先に次の台詞が出てきてしまい、そのまま話しが流れてしまう感じです。とは言うもののこの後に続く台詞から、おおよその推測が出来、話しの向いている方角が導かれます。
それぞれに自分の遠い過去の記憶を呼び覚まし、この場に於いて自分達が何者なのかを思い出そうとしているのでしょう。
「有機体は過去を喰らう」ですから、今生の自分は前生の記憶を食べて生まれてきているのですね。だから、転生しても過去の記憶を深いところに持っている。
ところで、第2幕 1場は「水族館」(の水の中?)だったのですが、やはりここで4人は魚に転生しているのでしょうか。だとすると六道のうちの畜生道に落ちたのでしょうか?
殆ど憶えていないですけれど、、、「裏切り者の見せしめは」「額を焼かれよ、十文字」
「誰かと(何かを)約束したような・・・」「何か、思い出しそうな・・・」「裏切る手はずの、姉、弟」
確かこんな風です。という事は、4人は揃いはしたものの、未だ真の出会いには至っていないと言うことでしょうか。
この場面での二人の安寿は、下手で重なるように立ち、香坂さん載せ麩に合わせて土居さんの口動きもシンクロするというスタイルです。あくまで土居安寿は声を出さないようです。面白い造り込みです。
さて、パンフレットの後書き(?)にもあったのですが、この夜会での鍵は、転生に於いて死はリセットではない、という事。
そしてその四?であげた「ぴあ」のインタビューから、観客の側よりも自身のカタストロフィを優先させていると語っています。
それに、この疑問点。
◇ 母の愚かさ
△ 安寿の献身、そして嘘と裏切り
▽ 厨子の負い目、葛藤、無念?
これらが最終的に氷解するのが正しい落ちの付け方だと思うのですが、表面で語られている事象は何となく理解できるものの、どうも奥行きがありすぎて却って落ち着かない感じがします。
♪"30. 十文字"
自分は悪くないと述べる
誰もかもが同じく述べる
・・・
今いる陸は 掌の上
その掌に 焼き付いている
その 十文字は何だ
山椒大夫の元で奴隷としていた時、いつかここから逃げ出して・・・と互いに慰め合っていたところを三郎に咎められ、逃亡を企てた罪として、灼け火箸を額へと、十文字に押し当てられます。
あまりの苦痛に気を失って、気が付いてみると、守本尊の地蔵が身代わりとなり、その地蔵の額に十文字が残ったという、この件を連想させると共に、奇伝小説「西遊記」にある釈迦と孫悟空の賭の話しも浮かびます。即ち、空間だけでなく転生という時間の流れを含んでなお、所詮は御仏の掌の上の出来事と言うことか。ただこの場合、その掌は釈迦でも大日如来でもなく、地蔵なんですね、ここがちょっとヒネリが有るみたいです。
また、地蔵というと幼くして亡くなった子供を見守る仏としても知られています。
地蔵菩薩 - Wikipediaなどと言うことですけれど、伝記などから推測される安寿の享年が十六歳。この歳の女子を幼い子供と考えて良いのかどうか、少々迷いますが、親よりも先に・・・という事を重視すると、地蔵の意味がまた深まるのではないでしょうか。
幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、
安寿の献身と裏切り、その姿を、逃げ出したものの縁切り寺には駆け込まず、ひたすらに隠れて逃げ続ける姿。戻ることも出来ず、渡ることも出来ない迷いとして描いているような気がします。
一方で厨子王の、その負い目や葛藤、無念さについては第1幕幕前の、炎上する縁切り寺に身を投じる部分だと思うのですが、残念ながらこれを追い込んで解釈することが出来ませんでした。
もうひとつ重要な点として、「十文字」は、第2幕序盤の「幽霊交差点」にて布石が打たれていましたね。なんだか、あとの詩を理解して前の意味が一段と深く理解できるような、重層構造になっている気配がします。
♪"31. ほうやれほ"
母の場面。
おもむろに袂から、鉢巻きのような手拭いのような赤い布を取り出したかと思うと、それでしっかと目隠しをし、これまたセンターの階段に隠された(本当に見事に隠されていました)葦?を手に取り、歌います。
鴎外(説教節?)の詩に見事な節が付けられていました。
パンフレットを見たときに、この詩で曲を作るとどうなってしまうのだろうかと心配しましたけれど、本当に切なく、見事な曲になっています。
ただこの場面の時間が分からないです。これは佐渡での事?それとも転生した後のこと?
実際に舞台を観たときには、3回共に母だけ時間の流れが違うようにも感じました。
ここでは切なく歌われる姉弟への思いと、それに加え、2番にあたる歌詞でしょうか「我が背」という言葉も出てきました。「恋しや 我が背」つまり、十二年前に謀反の濡れ衣を着せられて筑紫へ流された夫を思い歌う詩も加えられています。
この「恋しや 我が背」の歌い方が、1番の「恋しや 我が子」と全く対照的に、恋心を前面に出すような歌い方となっていたのが印象的です。
つまり母の行動、母の愚かさについての疑問に対するものは、「母親である前に、夫を恋しく思う一人の女であったから」という理解なのだと思います。
そしてこの詩も、「私の罪は 水の底 ゆるされまいぞ 消せまいぞ」と締め括られますが、これも第1幕の序盤で布石が打たれてたというわけです。(第1幕 第1場 7曲目)
やがて、繰り返し歌われる苦痛に満ちた「ほうやれほ」に、「109番目の除夜の鐘」がシンクロしてゆきます。
♪"32. 十二天"
オープニングにバイオリンのインストで演奏された曲が、ようやく詩を伴って歌われます。
とても印象的で、象徴的で、それでいて抽象的です。
絶望的な暗さの底にいる母の後ろで、ひとつ、ひとつと、行灯の灯がともります。
北の天から 南の天へやがてそこに向かい、救いの光が差し込むように、天から光が注ぎます
乾の天から 巽の天へ
西の天から 東の天へ
坤から 艮へ
・・・
他に確か、後半で「毘沙門天から 閻魔の天へ」などとも歌われていました。全て方角と上下の、十二天を意味します。
寧ろこの部分は舞台上で目も眩むほどのスポットを浴びた中島みゆきさんが、臥した姿から高々と天へ向かって手を伸ばし、目隠しを取り、十二の天部を讃えるかの如く力強く歌い上げるので、非常に心に突き刺さる場面です。
十二天を招き呼ぶのは、その場に於いて重要な仏縁の儀式を執り行うためなので、当初この解釈は、のちにつづく「紅蓮・・・」を迷いなく咲かせるための守護として歌われるのかと考えました。
或いは、十二天を周囲に廃し、中央に地蔵を抱いた地蔵曼荼羅(伝統的、本来の仏教的なものではなく、中島みゆき流の描き方、として)のようなものを描いたのだろうと思いましたが、あらためて文字にして考えますと、「乾」「巽」「坤」「艮」という方角の書き方は「八卦」だと気付きました。 「八卦」ja.wikipedia.org
方角の流れも、ぐるりと一巡するのではなく、北→南、北西→南東、西→東、南西→北東と決まった流れしか描かれず、(どちらかというと)「陰」から「陽」へと流れています。(全てそうとは限らないのが決定打にかけるのですが、、、)
また、父から娘、母から息子へという流れを示すものでもあります。
もしかするとこの三つ、或いはそれ以上の意味を込めて作られた曲のような気もします。
これまでの負の流れを断ち切り、一気に正へ、陽へと流れが変わります。
但し、その為には少なからずの切っ掛けと、決して弱くはない力が必要なはずです。それは何だったのでしょうか。暦売りの力がそれ程まで大きなものなのか、それとも暦売りもまた転生を重ねて大きな力を身につけたのか、或いは別の何かか、どうにも疑問は残ります。
♪"33. 紅蓮は目を醒ます"
「ぐれん」ではなく、「べにはす」です。
誰もいない 真夜中に 紅蓮は 目を醒ますということですが、仏教で高貴な花とされる蓮については、「蓮(ハス)」と「睡蓮」の区別がないといわれていますから、夜咲きの睡蓮でしょうか・・・植物好きとしては気になりますが、ここでは拘らない方が良さそうです。
また、「紅」という花色にも仏教的意義を追求しない方が無難な気がします。何故かというと、そこまでやるとちょっと深すぎるのです。つまり、教典の意義や解釈にまで踏み込むことになりますし、また旧訳と新訳の区別をどう取るかなどの整合性も考えなくてはなりませんので。
ここはむしろ、通常「ぐれん」と読まれる『紅蓮』を敢えて「べにはす」と読ませることに注視した方が面白いと思います。
「ぐれん」と読んだ場合、我が身をも焼き尽くすほど赤く燃え上がる炎、でありますし、また少々マイナーですが「紅蓮地獄」という冷寒の地獄もあります。
私のはじめの印象は、後者の紅蓮地獄でした。>自ら地獄に堕ちた?(身を沈めた?)という風に感じたのですけれども、この受け取り方はどうでしょうか。
ともかく、実に作り込んだなと感じたのは、ここまで観て聴いて再び序盤の「私の罪は水の底」に意識が戻る構造です。
第2部第1場の創りどころか、第1部の序盤から既に伏線引きまくり、布石打ちまくりだったというわけですよね。
つまり、「蓮」=「水の底」、なのです。
泥から生まれて 泥に棲み 泥を喰ろうて 生きてゆく(ちょっと記憶違うかも知れません)
冷たい水の底、暗い泥の中に置いた身が光差す中で明々と花を咲かせる、地の底から一気に光溢れる浄土へと駆け上る光景です。
何があったのかは前の「十二天」に因るのですが、これにて四散した者達が再びまみえ、ようやく揃って「河を渡る」事となります。
この河は浄土への河でもありますし、欺されて散り散りになった(あれは海でしたけれど)舟でもありますが、これに導いたのは誰であったのか?やはり「十二天」が鍵になるようです。
第2場 船
♪"34. 赦され河、渡れ"
赤い着物を脱ぎ白装束となった中島みゆきさんの歌に呼ばれて、舞台下より白装束の3人が駆け上がり、天から下りてきた舟に乗り込みます。ただ、記憶が正しければ当のみゆきさんは最後まで舟に乗り込まず歌い続けていたような気もするのですが、、、
ここも解釈しようとすると捉え方が難しい内容ですが、舞台の流れで観ていると結構感動的な場面でもありました。
思い上がっては いけません 人ほど弱い ものはない(この詩も言葉と並びが定かではないのですが)
ここまで来たら 出来ることは一つ
赦され河 渡れ
過去はぬぐっても消えません 一足先は 闇の中
裁く力も 赦す力も ない
赦され河 渡れ
何らかの力によってそれぞれの罪が許され、ようやく・・・と考えるのが単純な導き方ですが、この詩によればそうではないようです。
仏教的には「転生」には「因果」を伴って考えてしまうのですが、もし上の憶え(メモですが)が正しければ、許す許さないではなく、ましてや後の世の人々が哀れんだり誰の罪だとか、とやかく言う筋ではないのだ、とでも言いたかったのではないかと。
第3場 今晩屋
♪"35. 夜いらんかいね"
暗転した舞台上に一条のスポットライトが当たり、中島みゆき嬢の姿を照らします。
下手を向いて正座し、襟に「今晩屋」と書かれた半被を着ております。
ポスターやパンフレットの姿通りの「今晩屋」が、ここでようやく登場します。
お代はかわりに あなたの昼を ひとつならず いただきましょうと
夜 いらんかいね
さて、第1幕からここまで観てきたお話は、今晩屋の見せた夢でしたのでしょうか、幻だったのでしょうか
♪"36. 天鏡"
「てんきょう」と、パンフレットにルビが振られています。
「アメカガミ」とか「アマノカガミ」でしたら書紀の第1の一書に出てきます天鏡尊(アマノカガミノミコト)ですとか、少彦名(須久那美迦微:スクナビコナとかスクナヒコナ)の乗った天之蘿摩船(あまのかがみのふね)だとか、仏教、陰陽道、八卦、さらに日本神話(神道)までもか!?と腰が引けるところでありますが、さすがにその線はないでしょう・・・
"天の鏡"ですから、この世の出来事を全てうつしだしてみているもの、などと解釈するのが妥当かと思うのですけれど、これまたこの歌詞が色々と含みを持たせている感じもありまして、やはり決定的な解釈にかけます。
やはり記憶が定かではないのですが
その鏡に映るものは 隠しきれぬ 悲しみと 愚かさとと歌い上げ、これでこのおとぎ話は、めでたしめでたし(?)と締めくくりとなります。
・・・
この鏡を 手にすることに焦がれ 戦を起こす 心を捨てる
・・・
その鏡を 手にするものは 砕け散る 道しるべ
・・・
その鏡は 人の手には 触れることの 敵わぬもの 空の彼方 涙を湛えた 瞳だ
うーん、分からないなりにもの凄く面白かったんですけれど、此は一体何なのでしょうか。
みゆき嬢には是非とも種明かしをしていただきたいところであります。が、大阪公演では2月3日になり撮影用カメラ席が急遽、一般に販売されるなどの不測の事態も起こりまして
夜会VOL.15~夜物語~「元祖・今晩屋」2月3日公演では、客席からこのお話は舞台だけの幻に終わってしまうのではないかと危惧もしております。
撮影を予定しておりましたが、撮影が中止となりました為、カメラ
用に確保しておりましたS・A席を急遽販売することとなりました。
購入ご希望の方は、下記のお申込方法に従って手続きを行って下さい。
~2009年 1月30日 でじなみ便り 号外 より
さてもう一つ異例なこと?ですが、夜会では終わりに際し、出演者(キャスト)に加えてミュージシャンやコーラスの面々が舞台に登場し挨拶をしてお終いとなるのが通例ですが、この夜会では、さらに勢揃いした一同の中央で中島みゆき嬢本人がマイクを手に、お礼の挨拶をしました。
これは一体、、、やはり「目指すは大衆演劇」なのか、はたまたカーテンコールを要求しても一切答えないという本人のポリシー?に対して、年に1度(遠方の人はそれ以上か)会えるかどうかという、後ろ髪引かれる思いで席を立つファンへの気遣いか、或いは出てこないと分かっていても手を叩き続けることのないように、などと言うことなのかも知れませんが、ともかく、暦売りの音楽に乗せて挨拶の口上を述べ、その手拍子に乗って笑顔で舞台は幕となります。
さて、分かるような分からないような、分かろうとすればますます遠のくような、不思議な夜でありました。
全然「謎解き」なんて出来ていませんけれども、、、失礼しました。
とにもかくにも、この『夜会VOL.15~夜物語~「元祖・今晩屋」』の映像ソフト(DVDでもBDでも)の発売があると良いのですが、、、何としてもまたあの『十二天』を、今一度聴きたいと願い、果報は寝て待つことといたします。